いまから20年ほど前にハワイ大学の教授Dr.Yoneo Sagawa宅、タイ・台湾の友人宅に長期居候していたこともあり、様々な異文化の価値観にふれて私の自意識も変わりました。 もともと幼い頃から、クリスチャン系の幼稚園に通って外人の先生に教わったり、父が海外でランの買い付け時に購入したMade in Britishの玩具を与えてくれたりしたことにも大きな影響を受けていると思うのですが、西洋に対する強い憧れが幼い頃からありました。 その反面、「日本人としてのアイデンティティーを何でもいいから一つ持て」という教えに基づいて、空手道という武道精神も人一倍培われてきたと思います。 さらにラン専門業者という仕事の関係で、度々ヨーロッパ、アメリカ、アジア諸国、豪州を訪れます。その結果からか、どんな国の方からも私のキャラクターは「Something Strange!Not Typical Japanese!」というような変な評価を受けてしまいます。つまり根底に流れる哲学には、儒教の教え、仏教の教え、キリスト教の教えが入り交じり、混在しているため、多くの外国の方からみれば、宗教観、人生観が変に見えるのでしょう。しかしこのような和洋折衷的な感覚は、多くの現代日本人がもつものだと思われます。 このような個人が持つ宗教観や人生観が当然『魅せる意識』に非常に関与し、多大な影響を及ぼしていると思うのです。 欧米人と日本人とのプライベートに対する考え方は大きく異なるのは周知の事実でしょう。当然そこには気候の影響も関わっています。湿度対策を施した畳や障子などの文化には素晴らしい日本家屋として生き知恵がたくさん盛り込まれています。 東洋は木の文化、西洋は石の文化。東洋は植生が豊か、西洋は氷河期以降植生が貧困。つまり欧州諸国は、氷河期以後、植生が戻らなかったため、中国、日本の植物を庭に植え込んでいくといった花壇園芸が発達し、基本的に自然風景に石や植物というものをとり入れなければいけないという歴史がありました。なにも存在しない環境であったからこそ、景観を人一倍意識したのでしょう。 |
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一方、日本は春夏秋冬の折々の自然の恵みが豊かで、何もしなくても四季を感じられる自然の風景が存在しているのです。 斑入り植物のような変異個体を見つけてきては、鉢植え園芸として、個の園芸が発達してきた歴史があります。 東洋は除草しないと全て森に還っていくのです。垣根を作らないと、どこまでが自然でどこから園芸なのかがわからなくなるので、囲むことで境界を設けたのでしょう。『園芸』という文字が囲いに囲まれているのはそういった意味があるのかもしれません。「ごちゃごちゃしたところに整理された鉢物園芸」が、我が国の園芸意識の原点ではないでしょうか。つまり、「園芸は囲いのなかで行うものだ」という古き教えがあったということも無視できない事実でしょう。 縁側から庭に目をやると、庭景色で心が洗われるというのが昭和の園芸文化です。また、昭和のオープンガーデンは路地園芸、路地裏園芸で、アジアを代表する、日本国民特有のオープンガーデン文化だったと思います。アメリカ帰りの20代の頃は、大阪に見られる路地園芸がローカルっぽく見え、毛嫌いした頃もありました。とろ箱、発泡スチロール箱、統一されていない植木鉢などどれをとってもダサイという感覚がありました。しかしあれから20年近く経ち、日本の園芸も進化しました。この年になってやっと日本人らしい路地園芸を理解できるようになってきた様な気がします。 |
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今回のテーマは「路地裏園芸からオープンガーデンへ」ですが、それは路地園芸を否定しているわけではなく、路地園芸が原点であることをはじめにお伝えしたいと思っています。イングリッシュガーデンに用いられている植物を日本で栽培しようとしても、気候の違いから難しいものが多数あります。しかし、路地裏園芸で栽培されている植物は日本古来のものか、日本の気候にあった植物が多数なので、そういったものを日本のガーデンに取り入れていくと、植生豊かな庭を形成することが可能でしょう。 日本におけるオープンガーデンの問題点を考えると、まず気になるのは、庭をどちらから見るのか?という点です。室内から見る方向が大切なのか、垣根の外から見る庭が大切なのかという、正反対の問題が生じてきます。さらに欧米のように前庭(フロントヤード、フロントガーデン)は公共的な意味合いを感じて行えるのかという点です。欧米では公衆にさらされる玄関とプライベートである勝手口を完全に使い分けているのです。ハワイの大学教授宅に居候していたときに、友達を勝手口からあげたときは、非常に叱られました。あくまでもゲストは玄関口から庭を見て入っていかなければいけないのです。 次に気になる点は、日本古来の生け垣を取り去る意義があるのか?という点です。ゲートは必要なのか?郵便ポストの位置はどうするのか?という問題点があります。さらに地域の風景、和風なのか、洋風なのか、和洋折衷風なのかのというジャンルの問題について気になります。ドイツのように屋根の色などが統一されている地域では、当然、町並みがすっきりしていて、どんな植物を植えても統一感があります。しかし、様々な色彩を使ったアジア特有の町並みを見ると、やはり統一感に欠け、植える植物によってイメージも異なってきます。このゴチャゴチャしているところが、アジアらしくて魅力的なのも事実なので、根底に流れる国特有の意識がどのようなものか、今一度意識することが必要だと思います。 |
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