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Biography次世代に伝えること
内田先輩のアドバイス
 父にランの古書を多数持たされ、西千葉での下宿生活が始まった。

 当時のカリキュラムでは1回生の講義や実習は非常に少なくて、時間をもて遊ぶことが多く、 5月病にかかる間もなく昼間から酒を飲む友も多くいた。
 そんななかで、堂ヶ島洋ランセンターの代表取締役の内田一仁氏(大学の大先輩にあたる)が、 理学部の勉強をよくしておいた方がよいとアドバイスして下さったので、1回生の時から、 理学部の3、4回生に混じって専門過程を聴講させて頂いた。
 植物生態学や植物生理学などの基礎的な学力はその当時に身についたと思われる。
 さらに図書館にも毎日通い、形態学、生理学、、生態学、栽培学、育種学などの専門書を全て読破していった。  あれほど勉強したことは後にも先にもない。当時の内田氏のアドバイスがなければ、今の自分は存在していないだろう。
  さらに語学に対して不安があったので、ある英会話学校と別の学校を2校同時に通ったが、 こちらの方は一向に上達する気配が見えず、とりあえずハワイへ行ってサガワ先生に直接あって 「卒業後にお世話になりたい」という主旨を頼んでみようと思い立った。
  それが2回生の夏休みの出来事であった。1984年の20回目にあたる誕生日は「ハワイのサガワ先生を師事して生きていこう」と決心した特別な誕生日でもある。

 幼稚園の頃から父よりサガワ先生のことを聞かされていたので、それはほんとに長い道のりを経てたどり着いた人生の方向性でもあった。
 ちょうど歌手の松田聖子がハワイ大学に短期留学していた頃で、友人に「聖子ちゃんの真似だ」と失笑されながらも、 堅い決意をしてハワイ大学のサガワ先生に会うため、 新聞に記載されていた1ヶ月短期英会話留学を利用して短絡的に行動に移せたのは若気のいたりであったろうと思う。

内田先輩とトミー37歳
内田大先輩と。 ホストトミー(37歳)と呼ばれていた頃、東京ドームにて
サガワ先生への献上物
 このとき、父がサガワ先生への手土産として持たせてくれたものが、 ソフロニティス コクシネア ‘ピュアーイエロー’(Sophronitis coccinea var. aurea 'Pure Yellow')のマザーフラスコであった。

 その当時から16年も経過しているにも関わらず、現在でもこのフラスコ苗は米国の某蘭園から、 ‘イエロートミヤマ’という個体名に変えられて販売され続けているロングセラーな逸品なのである。
 ‘黄色い富山’という個体名はちょっと‘イエローモンキー的な富山’というアメリカ式ブラックジョークが含まれているようで、 あまりいい気がしないものだが、父が選抜した個体の再々メリクロン増殖されたものが全世界を‘黄色い富山’として 駆け巡っていると思うと面白くも感じられる。

  そんな大事なメリクロンのマザーフラスコを持参していたため、ハワイまでの移動には結構気疲れしたものだ。 10℃以上の温度差は禁物と聞かされていたので、直射日光に当てないようにひやひやしていた記憶がある。
 米国の税関で呼び止められ、これはどのくらいの価値あるものなのか問われたが、 答えるための英語がままならないのでただ立ちつくすばかりであった。
 そんな状況から、「いつになったら英語が流暢に話せるようになるのだろうか?」と何度も何度も当時は悩んだが、 今にして思えばとるに足らない悩みであった。しかし当時は何の特技も知恵もないただのボンボンで、 これから切り開いていく未来に対して非常に不安を憶えていたものであった。

 自信というものは、少しずつ積み重なって、 ある地点から一気に加速的大きくなっていくが、初めはどうすることも出来ないほど、 広い地平線を目指す旅人のような空虚感が漂うものである。
  現在の20歳前後の学生たちを見ていると、 当時の悩みをかいま見て微笑んでしまう。

ドクター ヨネオ・サガワ 父・佳明自慢の逸品 父・佳明自慢の逸品
ドクター ヨネオ・サガワ
父・佳明自慢の逸品
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